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日本国憲法について、日高六郎氏に聞く。
「日本国憲法をめぐる論議が日本でだいぶ以前から交わされています。ある人たちは改憲を希望しており、また一方では、現憲法に触ること自体を拒否しています。日高先生は、現憲法は21世紀の日本に適合するものとお思いになりますか」

 21世紀のフランスに、1789年の〈人権宣言〉は適合すると思いますか。大半のフランス人は〈人権宣言〉を変えることなど考えてもいないでしょう。1989年のフランス革命200周年記念の年に、ミッテラン大統領は「〈人権宣言〉は世界を一周した」と語ったと聞きます。
 しかし日本国憲法の改正は起こるかもしれないと、日本人は考えています。フランスは安定し、日本は動揺している。日本人はそのことの意味を正確に知るべきです。
 私は20代のとき、哲学者ベルグソン(フランス人は保守的な思想家と考えているでしょう) の本の中で、次のような文章を読んで感激しました。「人権宣言の一句一句は、弊風に投げつけられた挑戦である」(H. Bergson "Deux sources de la morale et de la religion" )。
 戦争が終って、1946年に発表された〈日本国憲法〉草案を読んだとき、私は、あちらこちらに〈人権宣言〉と同じ思想を発見しました。そして、憲法草案の多くの項目を、日本のアンシャン・レジーム、すなわち天皇統率のもとでの軍国主義社会に対する糾弾であると感じたのです。〈人権宣言〉と〈日本国憲法〉は似ています。また同じような役割を果たしたと思います。人間解放です。もちろん日本のばあい、その思想は60年経ったいまも決して人々に定着していません。その意味でも安定性がありません。しかし、方向が似ている。〈人権宣言〉には〈自由・平等・友愛〉がかかげられています。日本国憲法は「基本的人権の尊重、民主主義、平和主義」を特徴としていると、学校の教科書は書いています。二つの基本法をくらべると、前の二つ「自由と平等」と「基本的人権と民主主義」はほとんど同じです。三番目はちがいます。日本国憲法の第九条の平和主義は、戦争を放棄すること、いっさいの武力を持たないことです。フランスは国軍を持ち、核兵器も持つ国です。その点がちがいます。
 私自身は、第九条を変えて訂正、加筆することに反対です。なぜか。ひとつ、重要な一点を指摘します。私は、第九条を軍事問題としてだけと考えてはいません。フランスは軍隊を所有していますが、〈自由〉〈平等〉の発想は根が深く、くずれていません。しかし日本のばあい、第九条がくずれると、憲法の原則としての「基本的人権」と「民主主義」もくずれる可能性が大きいのです。それが日本社会の歴史的特質です。それだからこそ、戦後日本の発展に大きく貢献した憲法を軽々しく変えることに反対するのです。

「いちばん論争が交わされている問題点は、日本の平和主義に重点を置く第9条にあるのだと思いますが、この点をどうお考えですか」
 1946年3月8日、幣原首相は、軍国主義国家時代の大日本国憲法を改定した〈日本国憲法〉草案を発表しました。日本政府は、それが「連合国総司令部 GHQ との密接な連絡の下に」つくられたことをつけ加えていました。その全文は大きく新聞で報道されました。同時にマッカーサー元帥の「声明」、天皇の勅語、首相の「謹話」が紹介されました。一般民衆は、なにより第九条にひかれたと思います。長い戦争体験がありました。ほとんどの人々が戦争嫌いになっていました。戦争をせず、軍備を持たず、平和に暮らすことができれば、それ以上よいことはない。そのような安心感が広がったと思います。
 しかし、敗北した侵略国家の民衆に「永久」の平和が保証されるとは、ふしぎなことではないでしょうか。じつは第九条には、自明の大前提があったのです。それは戦争指導者たちはもちろん、それに盲目的に従った一般国民も、十数年にわたる侵略戦争にたいして、正しい認識と心からの反省を持つ義務があるということです。また日本が深刻な被害をあたえた国々とその民衆にたいして、どのような責任を果たすべきかを考える必要があるということです。そのことなしに、侵略国家とその民衆に「永久平和」という特等席をあたえることに賛成するものはいないでしょう。
 しかし、第九条成立から4年も経たないときに、朝鮮戦争が起こりました(1950年6月25日)。北朝鮮軍は国境をこえ、韓国南部にまで侵攻しました。朝鮮民族にとっての最悪の不幸でした。将兵だけではなく、民衆の死者の多かったことに私たちは驚くほかありませんでした。マッカーサー元帥は、朝鮮戦争に対応して、4万7000人の警察予備隊をつくることを、日本政府に要求しました。それは、日本占領政策の転換を意味していました。新しい要求は、朝鮮戦争への対応という以上に、日本に米ソ冷戦にたいしての軍事的役割を求めるということでした。アメリカは平和憲法を見捨てたのです。
 吉田首相をはじめ、当時の政府と官僚はむしろ積極的にこの提案に応じたと思います。4年前に新しい憲法案を熱烈に支持したのは、本心からではありませんでした。もし第九条を本気で考えていたのだったら、占領下、GHQの指示は絶対であるという状況であったとしても、別の対応が可能だったと思います。たとえば、警察予備隊は朝鮮戦争が終ったときには解散することを逆提案するとか。日本政府の「平和憲法」支持は中途半端でした。警察予備隊がつくられ、自衛隊(1954年)となり、政府はその増強につとめます。アメリカ側もそれを期待するのです。
 1955年2月、鳩山内閣は、憲法改正をはっきり公約にかかげて、総選挙を行います。天皇を元首とする。家族制度の復活(男性・家長優位)。最後に自衛軍創設。日本国憲法の最も重要な問題をひっくりかえす方針です。政治的意味の大きい選挙でした。私自身、東京大学の助教授でしたが、各地の憲法討論会にたびたび出かけました。結果は、改正反対派が、衆議院議席3分の1(156席)を超えて162議席とったため、鳩山(民主党)内閣の敗北となりました。議席数の3分の2をとらなければ憲法改正案は通りません。
 しかし勝ったといっても、議席数の過半数は保守政党で占められています。その後の総選挙でも自由民主党はつねに政権政党となりました。にもかかわらず、日本国憲法の存在は、戦後の日本の政治、経済、産業、教育、文化、日常生活に活気と成長をあたえました。不安定ではあっても、第九条のおかげで、日本の軍国主義が戦前と同じような形で復活することを抑えました。国際的にも、戦争の被害国である中国や朝鮮半島や東南アジアの諸国も、第九条によって日本が軍事的に再び暴走することはないだろうと考えてきました。
 しかし、もしいま第九条の改正が現実化したならば、期待を裏切られたアジア諸国の日本にたいする感情は一挙に悪化するでしょう。とくに2005年の小泉首相の総選挙での大勝利と、アジア諸国からの反発にもかかわら靖国神社参拝をつづける首相の姿勢からも、アジアの人々の日本にたいする反感や恐怖心が爆発することは確実です。
 文部省は、小・中・高の子どもたちの教科書の内容を、すべて検定(ほとんど検閲と同じ)する権利を持っています。私は日本の現代史を書き、満州事変のときの日本軍の行動は侵略的であった、と述べました。文部省は「侵略」、あるいはそれを連想させる文句は使わないようにと指示しました。私は、偽りの歴史を書きたくないと考え、その教科書を発行していた出版社に、執筆をやめたいと連絡しました。同じとき、多くの教科書に同じことが起きました。こうして1955年から82年まで、日本の子どもたちは、日本はアジアを侵略したことはないという教科書で勉強しました。82年、中曽根内閣のとき、韓国、中国、その他東南アジアの諸国からの抗議をうけ、文部省は「隣国との友好関係を考えて」検定基準を少し緩和しました。「歴史の真実を考えて」ということではありませんでした。平和主義は、教育の場から消えていました。

「昨年発行されたご著書『戦争のなかで考えたこと』(筑摩書房)の中で、1917年に中国の青島で生まれ育った幼年時代から、日本政府による満州国建設、支那事変、中国侵略までの個人的体験と精神史を自叙伝的に書かれておられますが、ご自分の体験から、現在の日中関係摩擦についてどうお思いですか?」

 ふしぎな家族でした。父母と4人の兄弟がみな戦争に反対でした。動機は違っていました。父は正義感から、兄はマルクス主義から、私は、小学生のときトルストイの童話を読んでから。しかし日本で平和主義者でありつづけることはたいへんむずかしい時代でした。
 敗戦直前、東大の助手だった私(29歳)は、海軍技術研究所に徴用され、敗戦数カ月前に、満州事変以後の日本の軍事行動を批判する報告書を書きました。大学の研究者の自由な意見を聞きたいという海軍の注文でした。私は、戦後日本の構想として、徹底的な言論の自由、アジア諸国との友好の2点はとくに強調しました。朝鮮の独立、台湾の返還を即刻実行することも提案しました。戦後、歴史家・家永三郎は、この報告書は日本国憲法の民間版だと指摘してくれました。
 いま、日中関係は最悪です。私は、前途を楽観していません。私は、満州事変(1931年)から、ヴェトナム戦争でのアメリカ軍の撤退(1975年)までを「44年戦争」と呼んでいます。日本、フランス、アメリカ3国がアジア大陸に侵攻したのです。
 しかし、フランス軍は1954年、ディエン・ビエン・フーでヴェトミン軍に破れると、少数政党の急進社会党に属し、国民議会議員だったマンデス=フランスが選ばれて首相となります。彼は3週間以内に停戦にすると国民に約束し、その約束をはたしました。その背後には、フランスの知識人や民衆の平和を求める声がありました。
 アメリカでは、反戦の学生運動・市民運動、あるいは公民権運動がアメリカ政府を動かしました。見込みのない戦争をやめることができなかったのが日本でした。日本には、戦争をはじめる官と軍はいても、やめさせる民がいなかったのです。
 私は、ささやかでも、日中の民衆、知識人、教師、芸術家、女性、そして政治家などの「民間」的交流が現在の百倍にもなることを期待します。なにより日本の民衆は〈歴史〉を学ぶことが重要です。




日高六郎 略歴
1917年、中国青島市に生まれる。89歳。60年東大教授に。69年東大闘争の渦中で辞職。戦後日本の思想家・社会学者として、ヴェトナム反戦、水俣公害闘争などの運動主体としても平和主義を貫く。著書『現代イデオロギー』(60年)、『人間の復権と解放』(73年)、『戦後思想を考える』(80年)、『私の平和論』(95年)『戦争のなかで考えたこと』(05年)他多数。現在、パリ南郊外のドラヴェイユ市に暢子夫人と在住。















































フランス語版テキスト ジャン・ユンカーマン監督作ドキュメンタリー「映画 日本国憲法」は、言語学者チョムスキー、政治学者ダグラス・ラミス、バン・チュンイ(韓国作家・監督)、日本人として日高六郎、ほか10人の国際的学者・研究家の貴重なインタビュー集。
日英語版カセットはEspace Japon にあります。


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