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19世紀末、万博が彩るパリ。
1878
5月1日から10月31日までの期間で、入場者は1600万人。1871年、普仏戦争の敗北によりプロイセン(ドイツ)へ多額の賠償金を支払い、また同年のパリ・コミューンにより街は廃墟と化していた。こうした多大な損害を受けたにもかかわらず、パリは経済復興も兼ねて万博を行った。
主な会場は、当時万博のために建てた鉄骨とガラスの巨大なシャン・ド・マルス宮(正面350m×奥行706m)と、今は姿なきトロカデロ宮(現在のシャイヨー宮と同じ場所に位置していた)。万博は産業技術のほか、美術・建築、パリの都市計画などの催し物が中心だった。

28ヘクタールの広大なシャン・ド・マルス宮。まだエッフェル塔の姿はない!


トロカデロ宮は表面積1600m2の巨大な建物で、観客5200人を収容できる当時世界最大のコンサートホールを持っていた。高さ92mの二つの塔を持つこの宮殿は、1935年までパリの大切なシルエットの一つだった。
宮殿前の庭に、日本、エジプト、モロッコなどのパビリオンが並んだ。


日本人と万博


日本は1878年、江戸幕府や薩摩藩などが出品した1867年に次ぐ、2度目の公式参加をした。
明治政府や美術商による版画・漆器・屏風・刀の鍔(つば)のほかにも、ギメなどのコレクターも所蔵品を出品。Gazette des Beaux-Artsをはじめとする美術雑誌や日刊紙は、当時万博のために建てられた日本館の描写、日本の歴史・文化・美術に関する記事を掲載。紙面からは、当時フランスにとって、日本が開国してまもない「未知の国」であったことが伝わってくる。日本人、日本家屋・建築、工芸品・美術品への驚異、関心が示されている。
この1878年、林忠正はパリへ渡り、万博会場で通訳を務めた。フランスに住むことを決意し、美術商として1905年まで滞在。作家エドモン・ド・ゴンクール(弟のジュールは1870年に死去)やギメと知り合い、多くの作家・美術批評家の執筆活動に貢献した。また、モネやドガなどと友好を深め、19世紀末のフランス絵画に代表される印象派に影響を与えた。


バルトルディが制作中だった「自由の女神」(正式名はla Liberte eclairant le Monde)の頭部内が見学できた。フランスはアメリカ独立100周年を記念し、この像を寄贈。
その返礼として、アメリカは1889年、フランス革命100周年を記念してミニチュアをフランスに贈った。
この像はグルネル橋下にある。

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