日本は1878年、江戸幕府や薩摩藩などが出品した1867年に次ぐ、2度目の公式参加をした。
明治政府や美術商による版画・漆器・屏風・刀の鍔(つば)のほかにも、ギメなどのコレクターも所蔵品を出品。Gazette des Beaux-Artsをはじめとする美術雑誌や日刊紙は、当時万博のために建てられた日本館の描写、日本の歴史・文化・美術に関する記事を掲載。紙面からは、当時フランスにとって、日本が開国してまもない「未知の国」であったことが伝わってくる。日本人、日本家屋・建築、工芸品・美術品への驚異、関心が示されている。
この1878年、林忠正はパリへ渡り、万博会場で通訳を務めた。フランスに住むことを決意し、美術商として1905年まで滞在。作家エドモン・ド・ゴンクール(弟のジュールは1870年に死去)やギメと知り合い、多くの作家・美術批評家の執筆活動に貢献した。また、モネやドガなどと友好を深め、19世紀末のフランス絵画に代表される印象派に影響を与えた。
バルトルディが制作中だった「自由の女神」(正式名はla Liberte eclairant le Monde)の頭部内が見学できた。フランスはアメリカ独立100周年を記念し、この像を寄贈。
その返礼として、アメリカは1889年、フランス革命100周年を記念してミニチュアをフランスに贈った。
この像はグルネル橋下にある。